2018年11月10日

クレバス

これは登山が生きがいだと言い切る知人から聞いた話。



彼は幼い頃から山の近くで生まれ育ったせいもあってか、



気が付いた時には、山登りが日常になっていたという。



中学や高校でも、ワンダーフォーゲル部や登山部に所属し、



それは大学、社会人になってからも続いた。



今現在、彼は結婚し子供も2人いる。



だから、危険な事や無茶な事はしなくなったが、若い頃には



まるで自分から危険に飛び込んでいく様な行動をとっていた。



あの頃は、本当に山で死ねたら・・・・。



いや、死ぬのなら、山で死にたい、と本気で思っていたから・・・。



そう彼は言っていた。



では、いったいどんな危ない橋を渡ってきたのかと聞けば、本当に



唖然としてしまう様な事ばかりだった。



誰かが滑落したと聞けば、敢えてそのルートを選んで山に登ったり、



冬場は決して誰も近づかない様な氷壁に挑んだり・・・。



だから、彼は数回、雪崩にも流された事があるのだという。



本当に助かったのは、ただ単に運が良かっただけ、と言い切る



くらいだから、きっと本当にそうなのだろう。



実際、あと数メートル流されていたら、そのまま崖下に落ちていた、



という場合もあったというのだから、恐ろしいばかりだ。



そんな彼が一番、恐ろしい体験だったと語るのは、クレバスに



落ちた時だったという。



しかも、それは単独で春登山している時だったという。



雪がうっすらと積もっており、そこを踏み抜いてしまった。



いつもなら絶対にしないミスだった。



そして、落ちた瞬間、



あっ・・・終わった・・・。



そう思ったという。



倒れこむように落ちた彼は、そのまま15メートルほど滑落して



ちょうど狭くなっていた部分に引っ掛かる様にして止まった。



体のあちこちが、とても痛かったが、どうやら左足があらぬ方向を



向いており、その激痛とともに、折れているのが分かったという。



だから、折れているであろう左足は見ないようにした。



そして、先ず、自分がいる場所から下を見下ろしてみる。



その時、自分がいかに幸運にも、狭い場所に引っ掛かったのかが、



よく分かったという。



自分の体は、背中のリュックが氷面に食い込んだ形で止まっているだけで、



その下には、底が見えないほどの暗黒が広がっていた。



その深さはゆうに100メートル以上在る様に感じた。



下からはヒューという風の音が聞こえてきて、その下に広い空間が



広がっている事を教えていた。



だから、彼は必死に上を見た。



クレバスの隙間から見える平は晴れ渡っており、とても暖かく感じられた。



それにしても、寒かった。



彼はクレバスに落ちたのは、当然初めての事だった。



そして、噂には聞いていたが、それほどまでに寒いものだとは思っていなかった。



体の感覚はどんどんと失われていき、寒さよりも眠さを感じる



様になっていた。



折れた足の痛みも、寒さのお陰で殆ど感じなくなっていた。



だから、彼は焦った。



早く上に上がらなければ・・・と。



きっと、自分がクレバスに落ちてから、5分と経っていないだろう。



それでいて、その強烈な寒さは、まさに死を身近に感じさせられる



には十分だったから。



彼は、自分の体の中で、まだ感覚が残っており動かせられそうな



部位を素早く確認していく。



右足には、まだ感覚が残っていた。



そして、痛みこそあったが、両腕にはまだ十分な力が残っていた。



だから、彼は、そこから這い上がろうとした。



寒さの為に、クレバス内の氷壁は、ざらざらに乾いており、登る事は



可能だと判断した。



そして、渾身の力で、自分の手足に力を入れた。



と、その瞬間、彼の体は、重力に逆らえなくなる。



ギリギリで引っかかっていたリュックが外れ、彼の体は一気にそこから



滑り落ちた。



そして、5メートルほど滑落したところで、またしても、かろうじて



止まった。



彼の足は完全に宙に浮いていた。



そして、彼は思った。



下手に動けば、このまま、どこまで続いているかすら分からない



クレバスの深い深層部に転落してしまう・・・。



そうなったら、きっと彼の遺体すら見つかる事はないだろう、と。



だから、彼は、その時、死ぬ事を覚悟していたのかもしれない。



だから、せめて、自分の遺体が発見して貰える場所で死ななければ・・・。



そう思っていたという。



そう思い、上を見上げた時、彼の目に、信じられないものが映った。



それは、クレバスの裂け目、地上からこちらを覗きこむ顔だった。



最初はそれが人間の顔だと思った。



だから、大声で助けを叫ぼうかと思ったが、すぐに止めた。



その顔は、明らかに普通ではなかったから・・・。



そして、彼が上を見上げたまま固まっていると、その顔はどんどん増えていき、



クレバスの裂け目に綺麗に並んだ。



全部で8人分の顔が並んでいた。



その顔は、どれもが、どこか欠落していた。



頭が欠けている者、顔が潰れている者、頭が完全に無くなっている者、



そのどれもか、明らかに生きているとは到底思えない顔だった。



その顔が彼の方をじっと見つめていた。



まるで、彼を心配するかのように・・・。



だから、彼はその顔が何故か怖くは感じなかった。



自分が死ぬ前に会った最後の人達・・・。



そう思うと、不思議と親近感さえ感じてしまう。



だから、彼は、その顔達に、声を掛けようと思った。



すると、その顔が突然、何の前触れも無く消えた。



それが、何を意味しているのかは、分からなかったが、彼はまた



孤独感に襲われる事になった。



しかし、それだけではなかった。



突然、彼の体が重くなった。



冷え切って感覚の無い体でも、それは分かった。



そして、彼は、必死にずり落ちないようにしながら、そっと下を



見た。



え?



彼は思わず、声を出してしまう。



そこには、彼の足にぶら下がるように、得体の知れない黒い人間が



必死に彼の足を掴んでいた。



彼は気力を振り絞って、それを振り落とそうとした。



しかし、その黒い人間は、全く動じる事無く、しっかりと彼の足を



握っている。



そして、彼は見た。



その黒い人間が、口を開けてニヤッと笑ったのを・・・。



そして、それと同時に、その黒い人間の下から・・・。



クレバスの奥(下)の方から、何人かの黒い人間が氷壁を這い上がって



来るのが、彼には見えた。



その時、彼は思った。



こいつらは、きっと、俺を連れに来たんだろうな・・・と。



やはり、俺は此処で死ぬしかないのかもしれない・・・・と。



その時、上から声が聞こえた。



おーい・・・大丈夫か?



今すぐに助けるからな!



頑張れ!



それは明らかに人間の顔と声だった。



すると、彼の足を掴んでいた黒い者達は、そのまま、ゆっくりと



クレバスの奥へと、下がっていった。



彼は、それを見届けると、安心の為か、一瞬、気を失った。



しかし、すぐに彼は揺り起こされた。



そこには、彼を助ける為に、ロープを使ってクレバスを降りてきてくれた



男性の姿があった。



彼は、そのまま、クレバスから助け出され、救助縁で病院へと



搬送された。



一時は、命の危険もあったが、何とか、一命は取り留めた。



しかし、彼は、その事で、凍傷の為、指を数本、切り落とす事になった。



それでも、彼は生きて戻ってこれた事に感謝した。



退院してからは、救助してくれた男性達の登山グループにもお礼の



言葉を伝えた。



そして、その時、彼は不思議な事を聞いた。



その男性達のグループは、確かに登山に来ていたが、彼がクレバスに落ちた



場所に葉近づく予定ではなかったのだという。



だが、その時、風に乗って、沢山の男性の声で、



助けてくれ!



ここにいる!



助けてくれ!



という声を聞いたのだという。



そして、その声に導かれるようにして進んだ先に、クレバスがあり、



その中から聞こえてくる声を確認する為に、クレバスを覗いたら、



彼の姿を見つけた、ということだった。



勿論、彼はクレバスに落ちてから、大声で助けを求めてはいない。



それを聞いて、彼は思ったという。



きっと、クレバスの底から、彼を連れに来ていたのは、彼を殺そうとする



モノだったが、クレバスの上から覗いていた沢山の顔は、きっとその山で



命を落とした方達だったのだろう、と。



やはり、何処の世界でも、敵もいるが、味方もいるもんなんだな、と。



ちなみに、彼は今も元気に登山を満喫しているが、決して危険な所には



近づかなくなったそうである。


Posted by 細田塗料株式会社 at 00:07│Comments(0)
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