2018年11月10日

氷壁

その時彼は海外の山にいた。



彼にとって登山は趣味であり、生き甲斐。



収入の殆どを登山という趣味につぎ込んでしまい、休みになっても



考えるのは登山の事ばかり・・・。



そんな彼がその時、登っていたのは海外にある氷壁。



高さでいえばエベレスト等とは比べようもないが、その難易度



でいえば、エベレストとはまた別の次元のものがあるらしい。



その氷壁を彼はたった一人で登り始めた。



俺に登山の事はよく分からないが、一人で登るというのがいかに



大変なことなのか、は理解出来る。



しかし、彼にしてみれば、一人の方が良い、そうである。



それくらいの難易度になってしまうと、パートナーがいない方が



気楽なのだという。



それは勿論、いざという時、巻き添えにしなくて済むという彼の



優しさなのかもしれないが・・・。



そして、その時も彼はたった一人でその氷壁に挑んでいた。



彼に聞いたことがある。



どうして、わざわざ、そんな危ない所に行くのか?と。



すると、彼はにっこりと笑いながら



好きだから・・・・だろうな(笑)



と返してくれた事がある。



生きている言をり強く実感できるから、とか、そういう難しい事ではなく



ただ、気持の赴くまま、ということらしい。



その氷壁というのは、当然一日や二日で登れるものではないらしい。



だから、彼は重たい荷物を背負って、その山に登る。



荷物の中には、簡易テントも、そして最低限の食料も入っている。



そして、その日の為に、彼は日頃から必死に働き、結婚もせずに



独り身を貫いている。



だから、なおさら、その登山にかける決意というのは皆皆ならぬものが



あるのだろう。



そして、その登山で、そして、その氷壁で何日間が過ごすという事は、



当然、岩肌ではなく、氷の上にテントを固定して眠ることになる。



勿論、そこから落ちれば絶対に命は助からない高さである。



だから、俺は本気で聞いたことがある。



お前って馬鹿なのか?と。



しかし、それくらいの高さになると逆に実感が無く、恐怖感はそれほど



感じないんだ、と言ってのけた。



この時点で、完全に俺とは違う人種なのだと悟った。



しかし、そんな彼も、その登山で忘れられないほどの恐怖を



味わったと聞いた。



それが、これから書く話だ。



その時、彼は氷壁に登り始めて2日目だった。



天候がどんどん酷くなっていき、次第に嵐になっていく。



彼は仕方なく、万が一、落雷があっても、雷の通り道にならない場所を



探してビバークした。



といっても、完全に宙づりのテントの中で、だ。



風がどんどん強くなっていき、吹雪になった。



自分が居るテントもかなり揺れ、さすがに生きた心地がしなかった。



そして、何処からか声が聞こえてきた。



おーい・・・・おーい・・・・。



それは女性の声だった。



どこかの登山パーティに女性が参加している組があるのかな?



最初はそんな風に思っていた。



しかし、それから、その女性の声が、まるで、好き勝手に宙を



飛び回っているかのようにいろんな方向から聞こえてくる。



おーい・・・おーい・・・。



その声は、少し切羽詰まった感じであり、まるで誰かを探している



様だった。



きっと、声が風に乗ってこだましてるんだろう・・・・。



彼はそう思った。



そして、腹も空いていたのでさっさと寝ることにした。



残りの食料も、それ程残ってはいなかったから。



いつもは、すぐに眠りに就く事が出来た。



しかし、その時は何故か眠れなかったという。



得体のしれない不安感が彼の頭の中を駆け巡っていた。



テントの外からは、風が凄まじい音で吹き荒れている。



その時、彼の耳に異音が聞こえる。



まるで、誰かがテントの上から手で引っ掻いている様なカサカサという音。



雪が風でテントに当たっているのかな?と思ったが、どうも違う。



彼は寝袋から上半身だけを出して起き上がる。



そこで、彼は信じられないものを見る。



誰かが外から、顔をテントに押しつけるようにしている。



まるで、何かを探しているようだった。



テントの外からでは中が見えるはずもないのだが、その顔は幾度も



場所を変えてテントを覗き込んでいる。



最初、彼の頭をよぎったのは、誰かが登山中にトラブルが発生して



自分のテントに助けを求めてきた、ということだった。



しかし、そんなはずがない事は彼自身が一番よく分かっていた。



こんな吹雪の中、氷壁に登り続ける事は、間違いなく死に直結する。



しかも、辺りは既に完全な暗闇になっている。



そんな状態で登山を続ける者などいる筈がなかった。



しかし、テントの外に誰かが居るのは確かだった。



氷壁から張り出すように設営されている彼のテントの外側から



顔を押し付ける事など出来るものなのか?



彼は必死に考えた。



それが、人間の仕業だと思いたかった。



しかし、どう考えても、結論として、それはあり得なかった。



彼は、そっと体を横たえて再び眠ろうと考えた。



何も見ていない、何も聞いてはいない、と自分に言い聞かせながら。



すると、いつしか、カサカサという音が聞こえなくなる。



安心したのか、彼はそのまま眠りに就く事が出来た。



それから、たいして時間は経過していなかった。



彼は異様な寒さに、再び目を覚ました。



寝袋から顔だけを出して確認すると、テント内に風が吹き込んできており、



雪が渦を巻いていた。



驚いた彼は、寝袋から体を出して起き上がった。



このままでは死んでしまう、と思ったから・・・・。



テントの入り口が開いているのは明らかだった。



どうして開いたのかは分からなかったが、そのままでは凍死するのは



確実だった。



だから、起き上がって、テントの入り口のジッパーをもう一度閉じようと



思ったという。



そして、彼は固まった。



そこには、少なくとも彼のそれまで見た事が無いモノが座っていた。



顔は、細すぎてはいるか、間違いなく人間の女だった。



しかし、顔から下の部分は間違いなく鳥としか表現出来ないものが



彼の目の前にいた。



それが、テントの中に座り、嬉しそうに彼を見ていたという。



まるで、やっと食べ物を見つけたとでも言うように・・・・。



彼は恐怖し、体が全く動かなくなっていた。



そんな事は初めての体験だった。



今まで、どんなに危険な場面でも的確に判断し、その通りに行動できた。



しかし、その時ばかりは、完全に腰が抜けてしまい、体が言う事を



きかなかった。



以前、山で熊に出会った時も果敢に撃退出来た。



完全なオーバーハングの氷壁にも怯むことは無かった。



しかし、その時ばかりは勝手が違ったという。



まるで、蛇に睨まれたカエル・・・。



相手に全く敵わないと認めざる負えないほどの圧倒的迫力。



彼はその時、確実に死を覚悟させられたという。



そして、そんな彼の心中を察したのか、その生き物は彼の方へと



少しずつ近づいてきた。



嬉しそうに笑いながら・・・・。



大きな口を何度も開けながら・・・。



そして、固まったまま寝袋からも出られないでいる彼のすぐ傍まで



やって来ると、その異様な顔を彼の顔に近づけてきた。



何か、生臭い匂いと同時にその生き物からは、外の吹雪を凌駕



するほど冷たさが伝わってきた。



もう、彼は自分の歯がガチガチと震えだすのを止める事すら出来なかった。



相手が捕食する側で、自分が捕食される側だという事実を突きつけられる。



手元には登山用のピッケルも置かれていたが、抵抗する気力すら



起きなかったという。



その生き物の顔がさらに近付き、大きな口が開けられる。



彼は、



どうせ死ぬんだったら、こんな死に方はしたくなかった・・・。



滑落して、いや、寒さでの凍死の方が楽だったかな・・・。



きっと食べられる時は痛いんだろうな・・・。



そんな事をただ茫然と考えていた。



いっそのこと、テントから飛び出してそのまま落下してしまおうか・・・。



そんな馬鹿げた事すら考えたが、それもテントの入り口を塞がれている



以上、叶わない願いだった。



その時、突然、彼の荷物の中にあった目覚まし時計がけたたましく鳴った。



いつもより、かなり大きな音に感じたという。



すると、その生き物は、突然、振り返ると逃げるようにテントから



出て行った。



まるで、宙に飛びだす様だったという。



彼は金縛りが解けたように、突然体が動くようになり、急いでテントの



入り口をしっかりと閉めて、そのままピッケルを握りしめて



身構え続けた。



しかし、それから、再び、その生き物がテントにやってくることはなかった。



それでも彼はそのまま一睡も出来ないまま、朝を迎えた。



体にはひどい倦怠感があったが、彼はそのまま登山を断念して



一気に氷壁をくだったという。



そして、なんとか無事に下山し、そのまま日本へと戻ったという。



そして、彼はこう言っていた。



あんな生き物が実在している事に驚いた。



いや、もしかしたら、あれは生き物なとではなく、もっと別の



モノだったのかもしれない。



ただ、不思議だったのは、自分では絶対にセットしていない目覚まし時計が



あの時鳴ったのか・・・・。



もしかしたら、数年前に亡くなった父親が助けてくれたのかもしれない。



だって、その生き物が去った後、テントの中には親父が好きだった煙草の



香りが間近いなくしていたんだから・・・・。



だから、きっと親父が来てくれたんだよ。



まだ、死んじゃいけないって・・・。



そう言って嬉しそうに笑った。



ちなみに、その氷壁では毎年、原因不明の滑落事故が起きているらしい。



そして、滑落した遺体を探すのだが、どうしても五体満足に見つかる事は



無いのだと聞かされた。



ちなみに、彼はそれ以後、その氷壁には一切近づいてはいない。





Posted by 細田塗料株式会社 at 00:32│Comments(0)
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