2019年07月14日

浴室

今考えると、少し前からおかしな事があったのだ、と彼女は言った。

マンションで一人暮らしをしている彼女は昼間の仕事が終わってから

夜の店でバイトをしていた。

勿論、経済的な理由だったが、昼間の仕事だけではとても生活していけない

らしく、週に3日~4日は夜のバイトで働いていた。

元々、人と話すのが嫌いではなかったので、夜の仕事にもすぐに慣れる事が

出来たし、何より昼間の時給に比べて夜の仕事の方がかなり良い時給だった

から、彼女はずっと夜のバイトを続けていこうと思っていたという。

夜のバイトが終わるのは午前12時くらいだったが、そのまま寝るわけにも

いかず、帰宅すると最初にお風呂に入ってから寝るのが習慣になっていた。

確かに、最近では午前0時時過ぎに帰宅すると、それまで誰かが部屋の中に

居た様な気配を感じる事はあったが、楽天家の彼女は元々、心霊現象の類は

一切信じておらず、さほど気には留めなかったという。

更に、朝になると、つい先ほどまでお湯が張られていたかの様に浴槽が

濡れている事もあったが、それも自然現象だと気に留めなかった。

そんなある日、彼女が夜のバイトから戻り着替えをしていると、突然、浴室の

折りたたみドアがカチャッと音を立てて開く音が聞こえた。

窓を開けたままにしておいたのかもしれないと思った彼女は、その音にも

動じずそのまま着替えを続けていると、今度はパタンという浴室のドアが

閉まった様な音が聞こえた。

その時にも彼女はまた風のいたずらか?と思ったらしいのだが、さすがに

煩く感じてしまい、着替え途中のまま、浴室へ行き開いている窓を閉めて、

ついでにお風呂の湯も張ってしまおう、と思った。

鼻歌交じりに浴室へと歩いていき浴室の明かりを点けてドアを開けた。

え?

その時はさすがの彼女も唖然としてしまう。

浴室の窓はしっかりと閉められ鍵も掛けられていた。

それじゃ、なんで?

どうしてドアが勝手に開いたり閉まったりするの?

そう考えて少しゾッとしたらしいが、もしかしたら隣の部屋から聞こえてきた音

だったのかもしれない、と自分に言い聞かせ、そのまま浴槽の蛇口からお湯を出して

リビングへと戻った。

珍しく心臓がドキドキしていたが、それでもテレビの深夜番組を見ていると

すぐに恐怖感も和らいでいく。

普通ならば、そんな夜は風呂に入るのは止めておくか、朝方に入るのが

当たり前なのだと思う。

しかし、彼女はお風呂に入ってからでないと寝つきが悪いらしく、結局

部屋中の電気とテレビを点けたままお風呂に入る事にした。

浴室に行くと熱いお湯が浴槽を満たしていた。

そこから立ち上がる湯気を見ていると不安もすぐに消し飛んだ。

湯船に浸かり、浴槽から上がって体と髪を洗い、また湯船に浸かる。

部屋中の電気を点けてきたせいか、もう恐怖は感じなかったという。

寝船の中で鼻歌を口ずさみながら手足のマッサージをした。

疲れがすっきりと解消されていくのが分かった。

そして、彼女は固まった。

先ほどから歌っている鼻歌が、どうしても自分だけの声には聞こえない事に気付く。

まるで、誰かが一緒に歌っているように・・・。

だから、彼女は突然、鼻歌を止めた。

すると、声など聞こえない。

やっぱり気のせいだよね・・・・。

そう思い、ホッとしている彼女だったが、突然、クスクスという誰かの笑い声が

聞こえてきた。

やはり、それも隣の部屋から聞こえてくる笑い声なのだと思いたかったが、その笑い声は

しわがれた女の声であり、隣の部屋には女など住んではいなかったし、そんな真夜中に

高らかな声で笑う事など在る筈も無かった。

彼女はまた固まった。

浴槽の中で裸、という無防備な状態でいる事が彼女の恐怖心を一層掻き立てた。

彼女は浴槽の中でお湯から顔だけを出すような恰好で全神経を耳に集中した。

笑い声はすぐに聞こえなくなった。

彼女は急いで湯船から上がり、明るくテレビが点いているリビングに行こうと

浴槽から体を上げた。

その瞬間だった。

彼女の目の前で信じられない光景が起こる。

浴室のドアからうっすらと見えている部屋の中の明かりが次々に消えていく。

リビングの明かりが消え、廊下の明かりも消え、浴室の外が真っ暗になっているのが

分かった。

彼女はその時、泥棒か変質者が部屋の中に侵入したのた、と思ったという。

それならば、先ほどからの不可解な現象も全て説明がついた。

確かに恐怖しか感じなかった。

だが、相手が人間であり、先ほど聞いた声の主なのだとしたら、その侵入者は

女性という事になる。

そして、女性であれば自分でもなんとか出来ると思ったのかもしれない。

彼女は浴槽から出ると、大きな声で、

誰かいるんでしょ?

警察にもう電話したから!

もうすぐ此処に駆けつけてくるからね!

逃げるんなら今のうちだよ!

と叫んだ。

真夜中に大声を出す事など迷惑以外の何物でもないのは分かっていたが、それでも

その声が誰かに聞こえ、そして助けてくれるかもしとれない・・・。

そう思ったらしい。

しかし、全く反応は無かった。

だから、彼女は耳を澄ませて次に自分はどうすれば良いのか?を見極めていた。

と、次の瞬間、カタンという音が聞こえ浴室のドアが開いた。

生きた心地がしなかったが、それでも彼女は必死に拳を握りしめて恐怖に耐えた。

浴室の折りたたみ式のドアが50センチほど開いていた。

そして、そこからは真っ暗な廊下が見えるだけで誰かがいる気配は一切

感じなかった。

それどころか、先ほど点けてきたはずのリビングのテレビの音も全く聞こえない。

彼女は真っ暗な廊下に向かって、

誰かいるんでしょ?

顔を見せなさいよ!

と再び叫んだ。

しかし、次の瞬間、開いていた浴室のドアがカチャッという音を立てて

独りでに閉まった。

其処に誰もいないのは間違いが無かった。

誰かがいたとすれば、ドアのすりガラスを通して確認出来た筈だった。

彼女は得体の知れない悪寒を感じ、慌てて再び浴槽の中に入った。

沈黙が恐怖でしかなかった・・・。

だから、彼女は浴槽の蛇口を捻ってお湯を出そうとした。

その時だった。

浴室の明かりが消えて、真っ暗になった。

突然の出来事に何も見えず浴室の白い壁だけがボーっと浮かび上がっていた。

もう彼女は動けなくなっていた。

本当は浴室から出てすぐにでも明かりを点けたかったし、浴槽の蛇口からお湯も

出したかった。

しかし、一瞬でもそのドアから視線を外せば、何か恐ろしい事が起きるのでは

ないか、と思い、恐怖で完全に固まっていた。

真っ暗な中での怪異に人間の神経は耐えられるものではない。

彼女は大声で悲鳴を上げて浴室から逃げ足そうと決意した。

その時、ポチャンと天井から水滴が浴槽のお湯の上に落ちるような音が聞こえた。

ヒッと思わず声を出して体をこわばられる彼女。

その時、突然、彼女の両肩に何かが乗せられたのが分かった。

とても冷たくゴツゴツしていたが、彼女にはそれが誰かの手にしか思えなかった。

そして、

今夜は一緒だねぇ・・・・。

という声が聞こえた。

彼女は遠ざかる意識の中で必死に浴槽の水栓につながったチェーンを探し、それを

引っ張った。

そうしなければいけない、と自分の中の何かが教えてくれたという。

彼女はしわがれた女の笑い声を聞きながら、そのまま意識を失った。

そして、朝になり目が覚めた時、彼女はまるで何かに背中から押さえつけられた

かのように、うずくまった状態だったという。

きっと、あの時、とっさに湯船の栓を抜かなければ、私は死んでいたんだと

思います。

彼女はそう震えながら話してくれた。

そして、それから彼女はすぐにそのマンションから引っ越しを決めた。

ちなみに、引っ越し先では彼女の周りで怪異は一切発生していないそうだが、

噂では、彼女がそれまで住んでいたマンションの部屋は、誰も入居者が

現われず開かずの間になっているという事だ。


Posted by 細田塗料株式会社 at 21:26│Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

count